「強がらなくていいんだよ」
生まれたばかりのころ、私たちは何も自分ですることができませんでした。
ご飯を作ったり、服を着たりすることはもちろんのこと、トイレだって誰かにしてもらわなくてはいけませんでした。
でもそんな何もできない赤ちゃんのそばに、助けてくれるお母さん、お父さん、おばあちゃん、おじいちゃん、お姉ちゃん、お兄ちゃん、幼稚園の先生たちがいるならば、困ったりしません。
周りの人も喜んで赤ちゃんのお世話をしてくれることでしょう。
でも、お兄ちゃん、お姉ちゃんになるにつれて、色々なことを自分でできるようになってきます。
周りの人も「一人でできたね!」と褒めてくれますし、時には「頑張って自分でやりなさい」って言ったりするようになるのです。
だからみんなも頑張って練習して、今までできなかったことを自分一人でできるようにしようとするでしょう。
神様は、みんなのそのような成長を喜んでくださいます。
よく頑張ったね!と褒めてくださいます。けれども、神様は全部を一人でやろうとしなくていいんだよとも言われるのです。
主の祈りの中に「我らを試みに遭わせず、悪より救い出だしたまえ」というお祈りがあります。
イエス様がこのお祈りを教えてくださるまで、多くの人々はどんな試練、困ったことがあろうとも自分で何とかしなくちゃいけない、悪いことを自分の力で遠ざけなくてはいけないと考えていました。
けれども、神様は全部を一人でやろうとしなくていいんだよとも言われるのです。
主の祈りの中に「我らを試みに遭わせず、悪より救い出だしたまえ」というお祈りがあります。
イエス様がこのお祈りを教えてくださるまで、多くの人々はどんな試練、困ったことがあろうとも自分で何とかしなくちゃいけない、悪いことを自分の力で遠ざけなくてはいけないと考えていました。
でも、イエス様は「助けを求めていいんだよ」って教えてくださったのです。
悪いことから離れること、人生の危機を乗り越えること、それらは自分ひとりの力で出来ることではありません。
神様の助けが必要です。
強がって「一人で出来るよ!」なんて考えないでください。
自分が弱く思われるのが嫌で、お祈りなんてしたくない!って思う人もいます。
ですが、神様に助けを求めることは恥ずかしいことではありません。
子どものころも、大人になっても同じように「神様、助けて!」とお祈りしてよいのです。
だって、神様は私たちの「父なる神様」なのですから。
神様はお祈りするあなたを不思議に、力強く助けてくださいます。
「ここから歩き出そう」
友達と喧嘩をしちゃった。だって、○○君が僕のおもちゃをとったんだよ。返してって言っても返してくれなかったんだ。僕も○○君も目から涙が出てきて、お互いの服をつかんでワーキャー言ってたら、先生が近づいてきて「どうしたの?」って言ってくれた。
僕は○○君がおもちゃをとったんだって説明したんだけれど、なんと○○君も僕がおもちゃを取ったって嘘ついたんだ!
先生も困り顔になっちゃって「一緒に遊べるかな?相手のことをゆるして、仲直りできる?」って聞いてきた。
僕だって喧嘩はしたくないし、先生も悲しそうな顔してるから、「うん、仲直りできる」って答えた。
○○君も「ごめんね」って言ってくれたから、僕は「いいよ、僕もごめんね」って答えたんだ。
ゆるしたつもりが、相手への嫌な気持ちが全然なくなっていなかったってこと、よくあるんです。
そういう嫌な気持ちはちょっとしたことをきっかけにあふれ出して、ついつい「前にこんなこと言ってた!」とか「こういうことした!」って相手を責める材料になってしまう。
どうしても昔あった嫌なことを思い出してしまうのです。
神様もそうなのかなって心配になりませんか?神様は私たちのしたこと、言ったこと、心の中さえも全部ご存じ。私たちは大好きなイエス様に知られたくないこといっぱいあります。
それをご覧になったイエス様は私たちのことが心底嫌になって、愛してくれなくなるんじゃないかと心配になるのです。
私はあなたを赦すから、もうあなたの罪を思い起こさないって。
イエス様が十字架にかかって死なれる前の夜、イエス様はもう少しで死ぬことが分かっていたので、それが辛くて一生懸命神様にお祈りしていました。
2人のお弟子さんに、私が祈っている間、眠らないでいてねってお願いしたのですが、2人は何度もグースカ眠ってしまいます。
イエス様の辛い気持ちを少しも知ろうとしないで眠ってしまうなんて、ひどいと思います。
お弟子さんたちも「しまった!」と思ったことでしょう。ですが、イエス様は2人を怒ることをしないで、「祈り終わったよ。さあ一緒に行こう」って言われたんです。
イエス様は私たちのこと、何でも知っておられます。嫌なことも知っておられます。
でも私たちが「神様、ごめんなさい」ってお祈りするならば、もうその時神様はあなたを赦してくださっているのです。これまでしてきたことだけじゃなく、これからする悪いことさえも私は赦すよって教えてくださいます。これが本当の赦すということ。
私たちも同じように赦せるでしょうか。難しいと思います。でもそのように赦されているって知っているならば、きっと赦せるように頑張れると思うのです。
イエス様の愛が分かれば分かるほど、私たちもだんだんと変わることができるのです。
「我ら『に』じゃなくて我ら『の』」
主の祈りでよくある間違いのひとつ、それは「我らに日用の糧を今日も与えたまえ」という言葉です。
正しくは「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」。何が違うか分かりましたか?そう、「我らに」ではなく「我らの」が正しいんですよね。「に」でも「の」でもどっちでもいいじゃん!と思うかもしれませんが、この二つは大きく違うのです。
日用の糧というのは、「今日生きるために必要なもの」です。食べ物、飲み物、着るもの、眠る場所、その他の物ぜーんぶ合わせて「日用の糧」と呼びます。
そして大事なのは、日用の糧は人によって違うということです。あなたにはあなたの日用の糧、あなたにはあなたの日用の糧があります。
でも、例えば食べ物にしても、「これだけ食べればお腹が減ることもないし、病気になることもない」という特別な食べ物を造られたわけではありませんね。色々な果物や野菜、動物を造られました。
それは私たちが食事を楽しむため、この世界を彩るためです。神様は私たち一人ひとりのお顔をよーく見ておられ、皆が笑顔で過ごすことを誰よりも望んでくださっています。
だから、私たちもまたそのことを喜んで受け取りたいのです。神様は今日、私にどんな良いものをくださるのだろうか。神様は私に何が必要だと言っておられるのだろうか。あなたのために用意された「日用の糧」があります。
だからこそ、「我ら『の』日用の糧を今日も与えたまえ」とお祈りいたしましょう。

「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(マタイによる福音書6章10節)
「イエス様は私たちの王様」
御国というのは天国のことです。天国とはどういう場所かというと、イエス様が王様として玉座に座っておられる国のことです。
今私たちが生きている世界では、目に見える人が王様として、大統領として、大臣として椅子に座っていて、色々な指示を出したり、決断をしています。
しかし、残念ながらすべてがうまくいくわけではありませんし、悪いこと、誰かが悲しむことが行われることもあるでしょう。人は神様ではないからです。
しかし、天国ではそうはなりません。王様であられるイエス様は御自分の命さえ、わたしたちのために捨ててくださったお方ですから、すべてのことを私たちのために、愛によって行ってくださいます。嘘も失敗もないのです。
そんな王様が守ってくださるなら、それは私たちにとって、なんと素晴らしく、嬉しいことでしょうか。

私たちはまだ天国に行ってはいません。
ですが、地上にあっても王様であるイエス様に助けを求めることができ、イエス様はその祈りに答えてくださいます。
天国で行われている愛の業を、どうかこの地に、この私に、私の大切な人にもお与えください。皆でイエス様にお祈りできるようにしてくださいとお祈りしてよいのです。
神様の愛の業は私たちが理解できないほど素晴らしいので、時には「神様、なんでこんなことをするの!?」と分からなくなることもあるでしょう。悲しい気持ちや辛い気持ちになることもあるでしょう。
しかし、それでお祈りを諦めなくてよいのです。「私にはまだ分からないけれども、イエス様は昔も今も変わることなく、祈る私に良いことをしてくださっているのだ」と信じてよいからです。
イエス様が私たちの素晴らしい王様でいてくださること、覚えていてくださいね。

「御名が崇められますように」(マタイによる福音書6章9節後半)
「御名をあがめることができますように」
「崇める」とは「これ以上のものはないと信じること」です。「御名」という言葉は神様のことを指しているので、「神様以上に素晴らしい方はいません」とか「神様より力強い方はいません」といった意味になるでしょう。
イエス様は前回、神様がお父さんであると教えてくださいました。何よりも力強く、素晴らしい神様が、あなたの御父さんとして誰よりも深く愛してくださっているのです。とっても嬉しいことですね。愛してくださるお父さんだからこそ、私たちは神様に心からお祈りすることができます。
でも、だからこそ不思議です。もう神様を愛している私たちが、なんで「神様をこれ以上ない方として信じることができますように」と祈らなくてはならないのでしょうか。もう信じているから、祈らなくてもいいとはならないのでしょうか。私たちは今、礼拝を捧げている間はそのことがよく分っているかもしれません。「神様は素晴らしいお方だ。この方がいれば困ることなんてないんだ」と。

けれども、礼拝が終わって、お家に帰ると、そのことを忘れてしまうのではないでしょうか。神様のことを忘れ、お祈りもしなくなり、困ったことが起きた時も自分でどうにかしなくちゃと考えてしまうのではないでしょうか。その時私たちは「神様を崇める」ことを忘れているのです。
だからこそ、私たちは毎日、主の祈りの中で「御名をあがめさせたまえ」と祈り続けています。私が神様を忘れることがありませんように。神様にどんな時も頼ることができますように。神様は聖霊様によって信じる心を与えてくださり、私たちの心を整えてくださいます。

「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、」(マタイによる福音書5章8節後半-9節前半)
「父なる神様」
神様って聞くと、どんなお姿を創造しますか?雲の上に乗っていて、杖を持っている、そんな仙人のような姿でしょうか?私たちが良いことをすれば、良いことをしてくれて、悪いことをすれば罰を与える、そんな神様でしょうか?
イスラエルの人々は神様をそのように考えていました。律法という神様とのお約束を守れば愛してくれる。でも律法を守らなかったり、礼拝や献金をお捧げしなければ愛してくれないと考えていたのです。

しかし、イエス様はそうではないよと人々に教えられました。それが主の祈りです。
主の祈りを、私たちはいつも礼拝の中でお祈りします。主というのはイエス様のことなので、これはイエス様が教えてくださったお祈りなのです。そのおいのりの一番初めに、私たちは「天にまします我らの父よ」と言います。これは「神さま、あなたは天国にいらっしゃる、私たちのお父さんです」という意味です。神様がお父さんって、なんか不思議ですね。
聖書には神様が私たち一人ひとりを造られたと書かれています。そして、造ったその後も、愛し、守ってくださるというのです。良いことをした人だけ好きになる、悪いことをしたら嫌いになるなんてことはありません。私たちを子どもとして大切にしてくださる神様は、遠い神様ではなく、私たちみんなの本当のお父さんなのですね。だから、子どもも大人も一緒になって、同じ神様をお父さんと呼んでいいんだよ、どんなことでもお祈りしていいんだよとイエス様は教えてくださったのです。主の祈りを祈る度に、私たちは「神様に我が子として愛されている」ことを知ることができます。

神様はいつもそばにいるよ
神様はどんな時もみんなのこ
とを守ってくれています
そういえばどんなふうに神様
はそばにいてくれるのかな?
例えば、猫はこどもを加えて
守っています

猿はどうでしょうか?
おなかに子供がしがみつ
いていなければ、落ちてしま
いますね。
さて、神様はどちらかな?

神様は猫のように僕たちが
離れないように一生懸命に
しがみつかねければいけな
いのではなく
猫のように私たちを
背中に乗せてくれるように
して守ってくれています。
いつもそばにいてくれる神
様に感謝してお祈りしまし
ょう。
なぜなら、枝には地面の栄養を吸い取る力がないからです。
ぶどうの木は根っこから栄養を吸い取り、木の幹から栄養が枝に送られます。枝が木にくっついていることで、初めて枝は実りをもたらすのです。
ある時イエス様は、ぶどうの木は私たちに似てるねとお弟子さんに話されました。
イエス様は普段から、周りの人々を愛しなさい。あなたのものを分けてあげなさい。苦手な人、敵のためにお祈りをしなさい。
そうやっていろいろな愛を教えて下さいます。
お弟子さんたちはそれを聞いて、最初は頑張るのですが、すぐに嫌になったり、諦めたりしてしまいます。
でもそんな時にイエス様が「ほら、もう一度一緒に頑張ろう。私があなたを愛しているように、あなたも誰かを愛してごらんなさい」と語りかけてくだsると、お弟子さんたちはもう一度頑張ろうって思えるのです。
できない事があっても、イエス様が一緒にいて助けてくださいます。愛することはとても難しいのですが、イエス様と繋がっているならば、私たちも愛の実りをたくさんつけることができます。
聖書の御言葉を読むことで、そのように生きることができます。
あなたがいるだけで、周りの人々が、神様が喜びに溢れるようになるのです。
この福光青葉幼稚園に私たちがいるのは偶然でしょうか。私はそうは思いません。すべての子ども、全ての大人がイエス様のお招きを受けて、ここにいるのです。イエス様が皆さんを招いたのは、皆さんが神様の平和をいただくため、そしてその平和を言葉や業によって、周りの人に、世界に知らせるためなのです。一人ひとりが神様に選ばれた特別な存在。イエス様は皆さんに大きな期待を寄せておられるのです。神様、今日私はどんな言葉を語り、どんなことをすればよいでしょうか?あなたの良い業のために、この私をお用いください。
ところが、朝起きますと、どこにもプレゼントが見当たりません。お父さんにプレゼントのありかを尋ねましたが、「何を寝ぼけているんだ」と叱られてしまいました。
イサカル君はプンプン怒りながら、イエス様に文句を言いに行きました。
「イエス様!昨日言ってたよね!神様は僕のお祈りを全部聞いて、すぐ答えてくださるって!」
「うん、言ったよ。」
「でも、僕お祈りしたのに何にも叶わなかったよ!神様が意地悪してるの?」
「ううん、そんなことないよ。神様はイサカル君がたくさんのお金、ペットのライオン、剣が欲しいことをちゃんと知っておられるし、もう答えてくださっているんだよ。」
「どういうこと?じゃあ、なんで神様はプレゼントをくれないの?」
皆はなんでだと思いますか?
赤ちゃんの目の前にはテーブル、テーブルの上には包丁が乗っています。赤ちゃんは包丁に気付いて、それを欲しがっていますが、テーブルの背が高いので届きません.
そこにあなたが現れます。
あなたは包丁に手が届きます。赤ちゃんはあなたにお願いしました。
「ねぇ、包丁取って!」。
あなたは包丁を取ってあげますか?おそらくそうはしないでしょう。なぜなら、包丁が赤ちゃんにとって危険なものであると知っているからです。どれだけ欲しがっても赤ちゃんのことを愛するゆえに与えません。別のおもちゃを与えることをするかもしれません。
どちらにせよ、赤ちゃんの願い通りではないので、赤ちゃんは不満を持つでしょう。ですが、これが赤ちゃんにとって一番良いことであると、あなたは知っているのです。やがて赤ちゃんが成長し、必要な場面があれば、あなたは信頼して包丁を渡すでしょう。
これが神様の御心です。
私たちは自分の欲求のままに欲しい物、こうなってほしいという願望を祈ります。それがそのまま叶うことを望みます。
また、本人はそれが本当に自分にとって必要なのだと信じ込んで祈るのです。
私たちの創造主、私たちのことを私たち以上に御存知で、愛してくださっている神様はその願いを全てお聞きくださり、本当に必要か、危険ではないか、今必要かを考えてくださいます。
ですから、祈ってすぐに与えられることもありますし、ずっと与えられないということもあります。全く別の形で叶えられることもあります。ですがそれは神様の意地悪でも、気まぐれでも、私たちの祈りの作法の問題でもありません。神様が愛によってすぐさま答えてくださることの証拠なのです。
だから、祈りが聞かれない時、全く違うことが起こった時、祈りや神様に絶望するのではなく、私にはまだ分からない神様の愛の御心があることを思い出して下さい。
神様はあなたにとって最も良いことを与えてくださるお方です。そしていつか、私たちがその御心に気付く時が与えられるのです。
ある町にイサカルという、生まれつき目の見えない男の人がいました。当時、目の見えない人は仕事に就くことができなかったので、イサカルは朝から晩まで道に座り、お金をもらって生活していました。足元にかごを置き、道行く人々に向かって「心のお優しい方、どうか今日生きるためのお金を分けてください!」と叫び続けていたのです。
この日もいつもと同じように道に座っていたイサカル、いつもと違ったのは町にイエス様が訪れていたことでした。イエス様は道に座るイサカルに気付くと、近づいて行かれました。きっとイエス様は目を見えるようにされるのだろうな。私たちもそう思うでしょう。しかし、そうではありませんでした。
イエス様はイサカルの心をよく御存知だったのです。神様にだって治せやしない。僕の目はいつまでもこのままなんだ。そうやって祈ることができないイサカルの心を。だからイエス様は尋ねられました。「イサカルよ、あなたが神様にしてほしいことは本当にお金のことだけかい?もっとお願いしたいことはないかい?」
聞かれたイサカルは今まで恥ずかしくて口に出すことができなかった祈りを叫びました。イエス様なら聞いてくださると信じて、お願いしました。「イエス様、目が見えるようになりたいのです。どうか助けてください!」
今から2年前に、臨ちゃんは我が家にやってきました。
まだまだ小さなリンちゃんはこの世界のことを何も知りません。何がいいことなのか、何が悪いことなのか分からないのです。
そんなリンちゃんですから、散歩のときにはびっくりするようなことがいっぱいありました。
ある日の散歩中、リンちゃんが草むらでガサガサ、何かをしていました。「リンちゃん、どうしたの?」と聞いてみますと、しっぽを振りながら帰ってきました。
すると、何かを口にくわえていることに気付きました。
見ると、それは何と死んだスズメさんでた。
「そんなもの食べちゃダメだよ!」と言って、すぐに離れさせました。
その後もリンちゃんはかえるさんや虫さん、タバコなどいろんなものを食べようとしましたので、その度に「これも食べちゃダメ」と教えてあげました。
慌ててリードをひきました。
「道路に向かって走っちゃだめだよ」とまた教えてあげました。
きっとみんなも同じようにするでしょう。
リンちゃんがけがをしたり、病気をすることがないように、色んな事を教えてあげるでしょう。
リンちゃんからすれば、したいことができないし、したくないことをさせられるのですから、少し嫌かもしれません。
うるさいなぁと思っているかもしれません。
でも、リンちゃんのことを大切に思っているので、好きにしていいよとは言えません。
今日の聖書の言葉に「掟」という難しい言葉が出てきました。
これは神様とわたしたちとの約束事。
「あなたがたはこういうことをしてはいけない」「あなたがたはぜひこういうことをしなさい」とイエス様は言われることがあります。
幼稚園で捧げる礼拝、ごはんやおやつの前のお祈りも、イエス様がぜひしなさいと言っておられることです。
礼拝なんてつまんない、早くご飯食べたいと思うこと、あるかもしれません。
けれども、神様に愛されていることを知り、食べるものが与えられていること、守られていることを知るのは、私たちにとってとっても大事なことなのです。
神様がいつも一緒にいて守ってくださる。そのことを知っていることが私たちの平和だからです。
今日も神様はあなたに語りかけておられます。
危ない目に遭わないように、嬉しく過ごすことができるように。
神様のお言葉を聞いて、ハイと答えられる私たちになれますように。